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聖金曜日  Feria VI. in Parasceve











                







 ローマ式典礼に従えば聖週間中の金曜日はミサ聖祭の献げられぬ唯一の日である。それはこの日永遠最高の司祭イエズス・キリストが十字架の祭壇上に御血を流して、御自らを聖なる犠牲と献げ給うたからである。されば本日は大いなる悲しみの日で、その為各聖堂は一切の装飾を取り除かれ、御聖櫃は空にされて扉を開け放たれ、十字架は黒い布でおおわれ、いかにも物悲しい光景を呈するのである。そして本日行われる聖式にも、ろうそくは最後にいたってようやくともされ、司祭は黒の祭服を着することに定められている。

 その聖式は予備ミサ、十字架の除幕及び崇敬、予備御聖体のミサの三部に大別される。

(一) 予備ミサ

 司祭及び助祭侍祭達は最初全く祭壇の階の上に平伏している。これは救われる前の人類の味気ない状態を表すものと見ることが出来る。それからキリストの御受難御復活を預言したホセアの言葉が朗読され、更に本日我等の為十字架の上に献げられる真の過越しの子羊イエズス・キリストの象徴として、出エジプト記中の過越しの子羊を用意するくだりが読まれる。次にヨハネ聖福音書からゲッセマネの園よりゴルゴダに至る主の御苦難の顛末が歌われるが、筆者が現状の目撃者だけに、この一遍の悲劇談は凄惨面をおおわしめるほどの実感を伴って人に迫る。それが終わると今度は、全世界の為、教皇の為、司教司祭の為、各階級のあらゆる人々の為聖会初代の古い祈りが誦えられるが、その一つ毎に一同は助祭の「我ら跪かん」という言葉につれて跪き、副助祭の
「いざ起たん」という言葉につれて立ち上がるのである。ただ不信なるユダヤ人の為に祈る時だけ、跪くことをしない。これは彼等がこの日跪いて主を嘲弄したからである。

(二) 聖十字架の除幕式及び崇敬

 聖金曜日の典礼の中心となるのは普通のミサ中の聖変化式に代わる聖十字架の除幕並びに崇敬の式であろう。この古い聖式はエルサレムで始められたもので、同地では真の十字架に尊敬を表しかつ接吻したのであった。

 司祭はミサ用祭服を脱いで祭壇の下書簡側に行き。そこで先ず十字架磔刑像の御頭のおおいを除き、次に祭壇を登り同じく書簡側で御右手をあらわし、終わりに祭壇中央で全部のおおいを取り去る。その時順次声を高くして「世の救霊のかかり給いし十字架の木を見よ!」と三度唱う。会衆は跪いて礼拝しつつ、「いざ、我等礼拝し奉らん」と答える。それから司祭は祭壇の前に枕させてその十字架を安置し、くつを脱いで三度跪きながら恭しくこれに近づき、御傷痕に接吻する。続いて他の人々も祭壇の奉仕者、臨席の聖職者、修道者、平信徒の順に各自二人ずつ進んでその通りにする。三度跪く時には「主イエズス・キリスト御身は聖十字架によりて世を救い給いたれば、我等主を礼拝し讃美し奉る」など適当な祈りをするがよろしい。

 かように十字架の崇敬が行われている間、聖歌隊はインプロペリアを歌う。これは救霊をもたらし給うた大恩に報いるに仇を以てし、主を侮辱し遂に十字架にまで釘づけたユダヤ民族に対する主の御嘆きで、その切々たる哀調は聞く者の心を動かさずにはおかない。しかし最後には十字架及び主の御復活に就いてその喜びの歌が歌われるのである。

(三) 予備御聖体のミサ

 聖金曜日の典礼の第三部は、予備御聖体のミサといわれる。まず祭壇のろうそくには火がともされ、十字架も再び祭壇上のいつもの位置に立てられると「王の御旗は翻り・・・」という讃美歌を歌いつつ、聖木曜日の御ミサ中に聖別されたホスチアを小礼拝堂(又は副祭壇)から大祭壇へ運び行き、そこで「予備御聖体のミサ」という省略ミサを行う。その際パンとぶどう酒の奉献に関する事が一部省かれ、司祭はホスチアを御聖体布に載せ、カリスに水とぶどう酒とを入れると、盛式ミサにおける如くホスチアと祭壇に対し香をたく、後司祭は祈らずに手を洗い、自らを献げる祈りとオラテ・フラトレス(兄弟達よ、祈るべし)を誦える。これは即ち奉献の一部である。次いで聖変化式の全部が省略される。それから司祭はすぐに天にましますを歌い、その終わりのリベラ(赦し給え)を高らかに歌い添える。そして右手でホスチアを高く挙げて会衆に示し礼拝せしめ、直ちにそれを三つに割り、一つをカリスの中に浸す。続いて御聖体拝領準備の三祈祷中最後のものだけを誦え、主の御聖体を拝領し、ホスチアの一部諸共ぶどう酒をいただく。その後カリスを清め祭壇の中央に置き、残りの祈祷の最初もののみを誦えて御聖体拝領を終わるのである。

 なお本日どこの教会にも広く行われる十字架の道行きは、大いに推奨すべき良い習慣である。その目的が罪の結果を黙想し犯した罪を痛悔し、主の御苦しみを共にわかち、我等の感謝を示すと同時に、その御鑑から、いかに十字架を背負って主の御後に従うべきかを学ぶにあることは、今さらいうまでもない。